「遙かなる時空の中で4」のストーリーは、記紀時代を舞台にして展開されていく。
それゆえ、それまでのシリーズとの最大の違いは、京(現代の京に相当すると考えられる)ではなく、
現時点では歴史学的に確定されていない「豊葦原中つ国」の存在していたと思しき
大和・筑紫が地理的な中心であり、他に多くの神話の舞台となった出雲地方が登場する。

そこで、あくまでもこのゲームは「異世界」である、との前提ではあるが、
実在・伝承織り交ぜた地名の検証を試みることにした。
ただしあくまでもシロウトが手持ちの書籍やネット上の情報に頼って、
楽しく(←ここ重要)推測したものであるから、歴史的な事象の誤認や齟齬が生じるかもしれない。
この点、 先にお詫びしておきたいと思う。
また、今後のワタクシの勉強次第で徐々に判明していくこともあると思うが、
その折には書き足すこともありうる、とお断りしておく。

なお、地図情報はYahoo地図Map Fan Webの両方を参考に、
遙か4マップについては、コンプリートガイド上巻巻末のものを参照 した。
地図画像はクリックすると別窓で拡大表示されるのでご利用下さい。

ではストーリーに沿って、まずは現代から話を進めましょうかね。



1.現代


最初に出てくるマップには、耳成山と高校と家しかない。
耳成山は実在しているのでその位置は動かないものとして、高校はどこだろうか。
「遙か3」では、将臣・望美・譲が通っているのはどうやら鎌倉高校らしかったが、
「遙か4」の高校生二人組、那岐と千尋が通うのは、位置関係から見て畝傍高校以外には考えにくい。
偏差値は70、かなり頭は良さそうだ(笑)
ついで彼らが住んでいた家だが、ゲーム中徒歩シーンはあるものの、
途中でバスや電車(近鉄大阪線)の利用の可能性もあり、またマップ上の道路の印象から
桜井市近辺ではなかろうかと推察する。
一旦家に戻った千尋が、雨模様だからと風早を迎えに行くのに
わざわざ 電車やバスを利用するかと言われると、ちょっと弱いんだけど(笑)

地図には位置関係がわかりやすいように、ゲーム中に登場する他の近くのポイントも示しておいた。
これらについては後述する。



2.高千穂・筑紫


主人公たちが異世界で最初に降り立つのは現在の九州中央部、高千穂から阿蘇の近辺である。
サザキたち日向の一族の根城であった天鳥船(鳥船の磐座)が停泊していた阿蘇山は、
現在も噴火が続く活火山として有名。
これも地学的変化はさておき、古代からその位置は変わらぬものと考える。
その近くには、風早EV「春の日のごとくのどかに」が発生する草千里(草千里ヶ浜)がある。
その他、蘇陽峡鵜ノ子の滝高千穂渓など、高千穂周辺には観光名所が目白押しである。

ちなみに天鳥船については、以下のように書かれている。

   次に生みし神の名は、鳥之石楠船神、亦の名は天鳥船と謂ふ
                                       (古事記 上巻 二神の神生み)

   次生鳥磐豫樟船 (次に鳥磐豫樟船を産んだ)
                                       (日本書紀 巻第一 神代 上)

つまり、天鳥船は神という形をとって、擬神化されているのである。
朱雀がいても不思議ではないのかも知れない(笑)

ところで天狭田とは、天照大神が持っていた田のひとつであるが、
確かな位置は不明。

    即以其稲種、始殖于天狭田及長田(その稲の種を初めて天狭田と長田に植えた)
                                       (日本書紀 巻第一 神代 上)


岩戸の森は、言わずと知れた天の岩戸、あるいはその近辺の森を指すのだろう。
実際には天の岩戸神社が高千穂町にあるので、そこらあたりかと思われる。

国見砦の位置がいまひとつはっきりしないのだが、国見ヶ丘の近辺であろうかと推測する。
もともと「国見」とは天皇が高い所に登って、国の地勢や景色、人民の生活状態を臨む様子を言う。

   大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば
   国原は煙立ち立つ海原は鴎立ち立つ美し国ぞ蜻蛉島大和の国は
                                     (万葉集巻1−2舒明天皇)

のように、国見することが秋の豊穣を言祝ぐ重要な儀式となっていた。
そのため、日本全国に「国見」という地名が残るが、この九州中部にも、
国見岳・国見峠・国見ヶ丘と、ざっと地図を見ただけでも数カ所存在する。
ゲーム中マップの位置関係的には、高千穂の北側、岩戸森との間にあるはずだが、
付近の物見を兼ねる砦としての性格上、現在の国見ヶ丘が「国見砦」の位置として
想定されたのではないかと考える。


次いで主人公たちが乗った天鳥船が向かったのは北九州方面である。
香春岳・背振山・英彦山など、山は現在と同じ位置と考えるのは先述の通り。
現在英彦山には英彦山神宮があり、香春岳には香春神社がある。
八女も浮羽も、現在では市となっている。おそらくは古くから人が住まう集落だったのだろう。

穴門は実は長門(現在の山口県)の古地名で、国府は豊浦郡(現在の下関市)にあったそうだ。
記紀に拠れば長府(長門国府)と呼ばれる前は穴門の豊浦宮と呼ばれていた。
しかし遙かマップにおいては、その位置はどう見ても小倉または門司あたり、つまり北九州市に見える。

岡田宮は古事記の神武天皇の項に

  其地(宇沙)より遷移りまして、竺紫の岡田宮に一年坐しき
                                 (古事記中巻 神武天皇)

とあるので、これがゲーム中に登場した根拠かと思われる。
最初は、つい短絡的に岡田宮=大宰府(役所としての表記は大宰府。地名や天満宮は「太宰府」)
と決めてかかってしまったのだが、実は大宰府自体は大宝律令によって政府機関として確立したもので、
それ以前はさほど大きな組織ではなかった模様。こりゃ違うか…。
ということで検索してみると、わりとあっさり岡田宮にいき当たる。
もちろん現在では神社だが、 もとは神武天皇の座した宮で、
そこを尊いとして祀ったのが神社となったものだろう。
とサイトを見ていたら、「岡田宮について」のページで、最初に目に飛び込んできたものにワタクシ大笑い。
「環状の三鈴」。ゲーム中に出てきたあの三環鈴である。
三環鈴自体は古墳時代の遺物として数多く出土し、京都国立博物館にも収蔵されているのだが、
岡田宮のは5世紀のものという。
…壊してもたぶん瞬間移動はできないと思うので念のため。

さてこのエリアのワタシ的なキモ、筑紫の磐座である。
遙かマップを見ながら、はてさてこれは現実世界のどこに相当するのかと頭を捻っていたが、
ひょんなことから判明した。
現在の地図を見ていたら、脊振山の西に「雷山」というところがある。
どうにも名前がそれっぽく感じて調べてみると、佐賀県佐賀市と福岡県前原市に跨っている脊振山地に属する
標高955メートルの山で、ここには神籠石というものが存在する。
その意味には霊域説と城郭説があるが、ゲームではこれを神域と捉えて磐座を設定したものと思われる。
実際に、神籠石を磐座とする説も存在するようだ。



3.出雲


 


その次に鳥船が降り立ったのは出雲。やはり古来から神とのつながりが深いとされる土地である。
…まあ、だから柊でなくとも、鳥船の行き先はある程度想像がつくワケだ(笑)

ここにも比婆山、道後山、明地峠(鳥取県日野郡日野町〜岡山県新見市千屋花見)、
夜見(米子市夜見町)など、地名そのままが残る場所は多い。

須賀は現在の島根県雲南市大東町須賀で、
古事記には以下のような記述が見られる。

   故ここをもちてその速須佐之男命、宮造るべき地を出雲国に求ぎたまひき。
    ここに須賀の地に到りまして詔りたまはく、
    「吾ここに来て、我が御心すがすがし」とのりたまひて、そこに宮を作りて坐しき。
    故、そこは今に須賀と云ふ。
   この大神、初め須賀宮を作りたまひし時、そこより雲立ち騰りき。
                                         (古事記 上巻 八俣の大蛇)

また、出雲郷は明らかに出雲市近辺であろうし、火神岳に至っては
大山以外にあり得ないだろう、という位置関係である。

    堅め立てし加志は伯耆の国なる火神岳これなり
                            (出雲国風土記)

いわゆる国引き神話で、土地を引き寄せるために使われた杭の片方が火神岳だった。

気多は、いわゆる因幡の白兎の伝説の舞台である。
兄弟神たちに意地悪されて、大荷物を担がされた大国主命(当時は大穴牟遅神)が
兄弟たちに遅れて因幡国にたどり着いた時、兎が苦しんでいるのに出会った。
それが白兎の話の始まりなのだが、 その出会いの場所こそが気多岬なのである。
現在は長尾鼻と呼ばれる鳥取市青谷町の岬がこれにあたるらしい。
白兎神社はもう少し東側、鳥取砂丘に近い場所になるが、
何にせよ鳥取付近の旧郡名を気多郡といったそうだ。

たたら場に関しては、地図とにらめっこを続けていると、JR木次線出雲横田駅の近くに
奥出雲たたらと刀剣館というのが見つかった。
同じ横田には日本美術刀剣保存協会のたたら事業所があり、現在では唯一の日本刀素材供給所なのだそうだ。
おそらく、ゲーム中のたたら場はこの地方に古くからあったたたら製鉄の象徴的な場所として、
この辺りの地をリブのたたら場として登場させたものと思われる。

出雲の磐座の場所には、少々難儀した。それらしい地名が見当たらないためである。
ままよとばかり、目についた神社を片っ端から当たってみて、美保神社にたどり着いた。
ここの主祭神は大国主神の子の事代主神と大国主神の后の三穂津姫命で、実は磐座がある(笑)
実際には小さいもので、巨石信仰の対象となるのが不思議なほどだが、
確かに存在するので、おそらくはここが出雲の磐座だろうと思う。



4.熊野・橿原


出雲を出た鳥船はあっさりと熊野に到着。マップの地勢からすると、
どうやら遙か3に出てきた花の窟のある熊野市あたりに停泊したものと思われる。

この熊野はいままでよりもよほど地名が判別しやすい。名草(名草山)、近露(中辺路町近露)、
十津川、果無峠、風伝峠と、現在も残る地名が多い他、
海宮は位置的に動かしようもなく串本だが、ここにはかつて海底遺跡があったという噂が存在した。
どうやら噂は噂で終わったようだが(笑)

紀は無論紀ノ国から来ているのだろうが、おそらくはこの時代、名草のある現在の和歌山市よりも、
田辺宮と称していた現在の闘鶏神社(遙か3では新熊野権現と言ってたアレ)が中心地だったのだろう。
もっとも田辺宮の創建は5世紀初頭の允恭天皇期であるから、遙か4の時代がまだ確定できない現段階では、
紀=田辺と断言は避けたいところだ。

風伝峠は、遙か3で熊野を歩き回った時に後白河法皇と出会った瀞峡の南東にある。
しかし南紀の海岸線を走るR42から、R311に入って10kmほど上がっていったところなので、
「この杉林の向こう、降りるとすぐに浜辺に出るそうなんです(@六章風早EV)」
ということはあり得ない(笑)
うっかり風早の口車に乗って歩き始めたら、エライ目に遭うこと間違いなし。

日本書紀には

   遂に狹野を越えて、熊野の~邑に到る。且ち天磐盾に登る
                                    (日本書紀巻三 神武天皇)

とあるが、狭野(現在では佐野と表記)は現在の新宮市南部、神邑は新宮市、天磐盾は神倉神社にあたる。
この神倉神社にはちゃんとあるのですよ「ゴトビキ岩」なる巨石が。これがご神体なのである。
ちなみに神倉神社のある新宮市新宮の南には「磐盾」という地名もしっかり残っている。

熊野の磐座は、これまでの磐座とは違い、はっきりと熊野本宮大社であろうと想像がつく。
紀(田辺)から近露を通って神邑(新宮市)に抜ける道は熊野古道の中辺路(R311〜R168)、
その途中にあるものを挙げるとなると、まず第一にこの熊野の本拠地に指を屈するしかない。
ところが本宮大社にはそれらしき巨石がないのだ。玄武はどこにいるんだ〜(笑)

さて主人公たちが常世軍を目指して十津川から果無峠に向かう道は、
R311またはR309から登ってR169を経由し、R168を通る小辺路であろうと思われる。
ただ、それだと遙かマップの「十津川」は十津川峡のことではなく、十津川温泉になる。
十津川峡はもっとずっと北になり、位置的に不自然なのだ。
ちなみに果無峠は、十津川温泉郷の南西、川が蛇行した左岸にある果無山脈の東端に位置する。

では、その2ポイントの間に位置するはずの常世の陣はどこか。
遙かマップの十津川の位置からすると、龍神温泉付近ではなかろうかと推察する。
そうなると果無峠の位置をずらさざるを得ないのだが、これを仮に龍神温泉の北、
高野山の最高峰である護摩壇山と考えると、ピースはぴたりとはまる。
が、ここいらあたりは、ルビーパーティの情報公開を待ちたい(笑)


そしていよいよクライマックスの橿原である。
鳥船は三重県熊野市付近から、北西方向に紀伊山地を越え、まっすぐに橿原にやってきたものと思われる。
現在は車を使うと、橿原から熊野本宮まで途中高速利用(葛城IC〜南紀田辺IC)で3時間半程度で行ける。
かつての中辺路――R311が整備され、走りやすくなったためだ。
なまじ十津川越えをするよりはその方が早い…というのは我が家の家人の弁である。
古代の千尋たちはもっと便利で、速度はそれほど早くはなかろうが、鳥船でひとっ飛びである。
直線距離にすると実は橿原と熊野というのは案外近く、60kmほどしかないのだ。

その橿原の中心部は橿原宮、現在の橿原神宮にあたる。
もともとは神武天皇が坐した宮として、古事記に

   畝火の白檮原宮に坐して、天の下治らしめしき
                                   (古事記中巻 神武天皇)

と記載されているのがそれ。
日本書紀には

   辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に即帝位す
                                   (日本書紀巻三 神武天皇)

とある。

その宮のすぐ北側には畝傍山、東に天香具山、北東には耳成山があるが、あの有名な長歌

   香具山は畝傍愛しと耳成と相争ひき神代よりかくにあるらし
      古もしかにあれこそうつせみも妻を争ふらしき    (万葉集巻1-13中大兄皇子)

の通り、橿原は大和三山と神域三輪山に囲まれた土地なのである。
もっとも神社としての創建は明治23年であり、神武天皇の宮というのは記紀に書かれた伝承である。

三輪山は太古より自然信仰の対象となって、山そのものが御神体だった。
最古の神社と言われる大神(おおみわ)神社がその窓口(笑)
ここには辺津磐座、中津磐座、奥津磐座と三つの磐座の祭祀遺跡が現存しているそうだ。
ちなみに三輪山登山は、摂社・狭井神社の社務所にて受付を済ませねばならない。
八章で忍人が「狭井の社で許しを得ないと登ることもできない禁足地だ」と語っていた通りである。
その狭井神社は、大神神社の広い境内にある。
風早が語っていた「狭井君はあの地の社の出」とは、正確にはこちらなのかもしれないが、
いずれにしても三輪の出、つまり大国主命の後裔の三輪氏出身ということになる。

宇陀は今も宇陀市としてその地名を残している。
忍坂は現在では忍阪と表記するが、現在の桜井市に地名が残っている。
日本書紀には、

   乃ち顧に道臣命に勅す。汝、宜しく大來目部を帥ゐて、
   忍坂邑に大室を作り、盛に宴饗を設け、虜を誘りて之を取れ
                                       (日本書紀巻三 神武天皇)

とあり、忍坂に大きな邸を作らせたと思われる――道臣に(笑)

室生にある室生寺は石楠花の名所・女人高野として知られているが、
無論この寺は仏教伝来以後、正確には奈良時代末期の創建になる。
従ってこれは、八章で千尋が祈った龍穴の場所ではありえない。
どこかそれらしいところは、と地図を睨んでいたら、その東500m程のところにそのものズバリ、
龍穴神社があった(笑)
古来より龍神に祈って雨乞いする場とされ、背後の岸壁に穿たれた龍穴とされる岩屋を有している。

ちなみに龍穴とは、四神に囲まれ、陰陽道や古代道教、風水術における繁栄を約束された土地であるが、
その地には大抵古社などが鎮座しており、伊勢神宮や唐招提寺、日光東照宮なども龍穴とされているそうだ。
活断層との関連を指摘する説もあるので、ひょっとしたら地震――龍神の怒り、あるいは
禍津神(遙か4では禍日神)の暴走を封じ、災厄を抑えるために寺社が儲けられたのだろう。


5.常世の国

これが地図を作れないときた。
そもそも常世の国自体が、ゲーム中の禍々しいイメージとは違い、
本来古代日本では、海の彼方にある不老不死の世界、理想郷として捉えられていた。
遙か3での補陀落や、沖縄のニライカナイ、昔話の竜宮城のようなものなのだろう。
それがインド・ヒンドゥー的世界と結びついているのは、やはり仏の住む天竺だからだろうか?
…神仏の対立が中つ国と常世の対立となって現れたということだろうか。

根宮は、古事記や日本書紀には「宮」として登場してはこないが、
「根国」 のことは以下の通り。

   ここに答へて白さく、「僕は妣の国根の堅州国に罷らむと欲ふが故に哭く」とまをしき
                                       (古事記 上巻 須佐之男命の神やらひ)

   故其父母二神、勅素戔嗚尊、汝甚無道、不可以君臨宇宙。固當遠適之於根國矣、遂逐之
   (父母の二神は素戔嗚尊に「おまえは手がつけられない。世界に君臨すべきではない。遠い根国に行け」
    と命じて、ついに追いやった)
                                       (日本書紀 巻第一 神代 上)

根国とは、地下にあるとされる異郷、地下世界のことである。
古事記では黄泉国と同じ意味として扱われているが、
根国で伊邪那美命が住まっていたのが根宮なのかもしれない、とこの際は推測するに留めよう。



また、地図が作れない理由のもうひとつは、それぞれの地名の由来と思しき場所が
あまりにも離れすぎているからである。

まず、伝・黄泉比良坂と言われる場所は、古事記によると、

   かれ、その謂はゆる黄泉比良坂は、今出雲国の伊賦夜坂と謂ふ
                                       (古事記 上巻 伊邪那岐命と伊邪那美命)

ということになっている。
現在の島根県八束郡東出雲町揖屋町平賀に、黄泉比良坂の石碑が建っているそうだ。

幽宮についてはは二説ある。

   その伊邪那岐大神は、淡海の多賀に坐すなり
                                       (古事記 上巻 伊邪那岐命と伊邪那美命)
     
   是後、伊奘諾尊、神功既畢、靈運當遷。是以、構幽宮於淡路之洲、寂然長隠者矣
    (この後、伊弉諾尊は神の仕事をすでに終えて、あの世へ赴こうとした。
     そこで、幽宮を淡路之洲に構え、静かに長く隠れることにした)
                                       (日本書紀 巻第一 神代 上)

この通り、古事記が示すのは滋賀県犬上郡多賀町多賀にある多賀大社であり、
今ひとつ、日本書紀が示すのは兵庫県淡路市多賀の伊弉諾神宮である。
幽宮そのものは、隠居の地、永眠・永住の地の意で、すでに子供たちに国を譲ったということらしい。
アシュヴィンが幽宮にいたのはそれとは違って、離宮程度の意味かもしれない。

長鳴峰と岩砦はどうしてもそれらしい地名を見つけることが出来なかった。
岩砦は一般名称らしき名前であることからもわかるように、もとより非常に探しづらい。
ただ、長鳴、とは文字通り長く鳴くニワトリのことで、古事記の天の岩戸のくだりで
「常世の長鳴鶏」として登場し、美しい鶏鳴で岩戸の内に引きこもった天照大御神を
誘い出す役目を演じている。

   ここを以ちて八百万の神、天の安の河原に 神集ひ集ひて、
    高御産巣日神の 子、思金神に思はしめて、常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて(後略)
                                       (古事記 上巻 天の石屋戸)

どちらにしても岩戸が九州である可能性が高い以上、出雲の比良坂や
淡路島または滋賀の多賀にあるはずの幽宮と近い距離の地図(常世の国マップ)に
示すことはできないのだが。

最後に八街。
ワタシは関東方面の地理に詳しくはないが、八街とは千葉県八街市以外に検索でヒットしなかった(笑)
ちなみに八街の由来は、明治新政府が明治2年からの開墾着手の順序によって命名した
字名が始まりとされているそうだ。八番目の開墾地だったワケですな。
どちらにしても古代からあった地名ではない。
いろいろ調べてはみたものの、これ以外にめぼしい情報はなかったので、
何か情報をお持ちの方、是非ご連絡下さい(^^;


6.番外

アシュヴィンの会話によく出てきた高志(こし)はすなわち越の国、
今でいうところの福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に跨る古代の勢力圏だったそうだ。
7世紀はその北端が蝦夷との境界線であり、阿倍比羅夫が蝦夷を討つなど、常に戦いに曝されていたが
やがて大宝律令によって三越(越前・越中・越後)に分割された。
八岐大蛇はこの高志からやってくるとされていたらしい。


(2008.8.15.了)





   
inserted by FC2 system